詩的で私的な記憶の『鏡』、あるいは「死にゆく詩人の最後の光のなかで、人生がほどけていく」物語
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詩的で私的な記憶の『鏡』、あるいは「死にゆく詩人の最後の光のなかで、人生がほどけていく」物語

ひどい吃音で、自分の名前すら言えない一人の少年。治療師は彼の手を取り、じっと目を見て、暗示をかける。長い、居心地の悪い沈黙。そして少年は、詰まりながら、はっきりとこう言う——私は話せる」。ここで、ようやく題字が出る。『鏡』。これから始まるのは、話せるようになった人の映画ではない。話したいのに話せない人が、話そうとして失敗しつづける106分だと言われたら、観る人はどう思うだろう。

「鏡」(原題 Зеркало、1975/ソ連/106分)は、アンドレイ・タルコフスキーがほとんど自分の記憶そのものをフィルムに刻んだ作品である。”a poet’s life unfolds before his eyes during his final rays of consciousness”——死にゆく詩人の意識の最後の光のなかで、人生がほどけていく作品。そんな説明を聞いて、タルコフスキーという映像詩人の記憶の断片を見てみたいという好奇心が溢れてくるのは私だけではないだろう。戦時下の疎開、帰ってこない父、印刷所で校正の仕事をする母。すべて監督自身の子ども時代である。驚くのはその徹底ぶりで、老いた母を演じているのはタルコフスキーの実の母マリヤ・ヴィシニャコワ本人であり、全篇に響く詩を朗読しているのは実の父である詩人アルセニー・タルコフスキー自身の声だという。帰ってこなかった父が、声としてだけ、この映画に帰ってくる。

そして最大の仕掛けがある。マルガリータ・テレホワが、1930年代の”母”と1960年代の”妻”を同じ顔で二役演じている。しかもこれは当初の構想にはなく、タルコフスキーらが撮影の土壇場で決めたことだったという。

Art by Daisuke Nishimura

着想は1964年。1968年に「告白」という企画で出したときは、国家映画委員会ゴスキノに「複雑すぎる」と却下され、ようやく承認が下りたのが1973年夏。撮影を終えた1974年7月、完成品はまた「意味不明」として拒まれ、秋になって——一切の修正なしで——通ったが、公開はプリントわずか73本の”第二カテゴリー”扱い、公式プレミアもなし。カンヌ映画祭のコンペに出したがった監督を尻目に、当局はボンダルチュクの戦争映画を送り込んだ。極めつけは、それまでのタルコフスキー作品すべてを撮ってきた撮影監督ヴァジム・ユーソフが降板したことだ。理由は、脚本が”あまりに私的で自己陶酔的”だから。着想から完成まで十年。この映画が世に出るまでの経緯そのものが「吃音」のようだ。

タルコフスキーの言う『鏡』というのは、自分を映すためだけの道具ではないのだろう。誰かが自分の記憶を、順序も説明もなしに差し出したとき、そこに「自分の母の台所」を、「自分の父がいなかった夏」を見てしまう。たぶん記憶というのは、ジャック・ラカンのいう「鏡像段階」のように《個人の持ち物》のふりをした、ものすごく共有されたものだからだ。

ことしの4月、神保町に誕生した素敵なミニシアター「シネマリス」で開催されたタルコフスキーナイトでこの映画を観た。オールナイト上映の3本目、この映画が上映されたのは始発列車が走り始める直前だった。しかしそれまでの眠気が嘘のように覚め、画面に大きく映し出された”少年”の吃る姿に引き込まれ、マルガリータ・テレホワの理知的で美しい姿と、説得力のある強烈な映像の断片たちに、タルコフスキーの美に対する恐るべきエゴを感じざるを得なかった。

『鏡』の中でその少年は「私は話せる」と言った。彼の「吃り」が治ったのかどうかは誰にもわからないが、ただ言えることは、この映画は「私は話せる」という言葉を、106分かけて、言い直しているだけなのだ。レニングラードの工場労働者たちが、この映画を観て「私はこの映画を観ているのではない。生きているのだ」と言ったように、そこには自分を映す『鏡』があって、タルコフスキーが生きた時間があって、強烈な美を放ちながら、それを観る人たちの人生さえも、認識可能な断片となって、続いていくということだ。