ロボット部のジャニは、手作りのチープなおしゃべりロボットに、たった一つの言葉だけを録音した。仕掛けた場所は、家を出たまま戻らない姉の部屋の前。誰かが通るとセンサーが反応して、ロボットは元気に挨拶する。「お姉ちゃん、おかえり!」。おばあちゃんが通っても、お母さんが通っても、ジャニ自身が通っても、猫が横切っても、ロボットは律儀に「お姉ちゃん、おかえり!」と繰り返す。けれど、お姉ちゃんは帰ってこない。笑顔のあふれる家の中で、この小さなロボットが物語を貫く一本の糸になり、家族の愛を、優しく、そして力強く描き出していく。
スクリーンの中の少女たちは、とにかく瑞々しく、笑顔がまぶしい。クラスメイトと寄り道して蝶々の飴細工を買い、母に頼まれたお使いのついでに、またおやつ。甘いものと、夢を見ることが大好き。それがジャニたちだ。そして彼女たちは、伴奏もなしに、どこででも歌いだす。物語はシンプルだ。でもシンプルだからこそ、気がつけば自分も家族の一員になったような気持ちで、彼女たちに寄り添っている。監督は「家族で面白いのは、毎日経験する小さなことそのもの」と語っている。観終わったあと、”今の僕の心は、こういう映画がほしかったのだ”と気がつく。
「12月のジャニ(Desember Jani/Jani Be Good)」は、インドネシア西ジャワ州の街バンドンを舞台に、三世代の女性たちの12月の4日間を描く101分だ。13歳のジャニは、何も言わずに家を出ていった姉ジュリアの帰りを待ち続けている。女手ひとつで家計を支える母ウィニーは負い目を抱え、ジャニはその母に怒りをぶつける。心を許せるのは、春巻きを売る祖母だけだ。そしてジャニがひそかに抱えるある秘密をきっかけに、四人の女たちは長く避けてきた対話に向き合うことになる。原作は、詩人でもあるCyntha Hariadiの短編集『Manifesto Flora』。監督はこの本を読み、3年かけて彼女と物語を練り上げた。Hariadiの言葉が、この映画の芯をよく言い当てている。「子どもは聞いてもらえないと感じ、親は自分のすることはすべて家族のためだと感じている」。愛し合っていても、分かり合えないことはある。だから二人は、登場人物を”完全に正しい人”にも”完全に間違った人”にもしなかった。ジャニを演じるのは Chempa Puteri、姉ジュリアは Hyori Mika、母は Sigi Wimala、祖母は Tutie Kirana。

監督のアリアニ・ダルマワンは、長編デビューまでずいぶん遠回りをしてきた人だ。建築工学を学んだあと、シカゴ美術館附属美術大学で修士号を取った。短編、ドキュメンタリー、映像インスタレーション、マルチメディア演劇を手がけながら、2003年からはバンドンで書店兼図書館「Kineruku」を営んでいる。2008年の短編「Sugiharti Halim」は、名前とアイデンティティをめぐる10分のユーモラスな問いかけで、Konfiden映画祭の最優秀短編賞と観客賞を獲り、クレルモン=フェラン国際短編映画祭のコンペにも選ばれた。製作のPalari Filmsは、2016年にプロデューサーのMeiske Taurisia、Muhammad Zaidy、監督のエドウィンが立ち上げた会社で、エドウィンの「Posesif」(2017)ではインドネシア映画祭のチトラ賞を3部門獲っている。エグゼクティブ・プロデューサーには、人気俳優のLuna Mayaが名を連ねる。
プロデューサーのTaurisiaは、この作品を、作り手が女性だというだけでなく、物語の視点まで”とても女性的な”プロジェクトだと語っている。実際、登場する男性は、デリバリーの配達員と飴売りのおじさん、同級生の父親くらいのものだ。それ以外は、すべてが女性でできた世界。監督もまた、”新人”とはいえ若手ではなく、多くの経験を重ねてきた女性だ。この映画の新しさは、年齢ではなく、まなざしのほうにあるのかもしれない。
劇中に一度だけ、CGを使った不思議な場面がある。時間が止まり、世界の中で動いているのはジャニだけになる。アピチャッポン・ウィーラセタクンを思わせる、散文詩のような表現だ。かなり挑戦的で、好き嫌いは分かれるだろう。それでも僕はそこに、映像インスタレーションの作家でもある監督ならではの、自由な想像力を感じた。

ずっと少女のままではいられない。けれど、大人にもなりきれない。そんな時間が、贈り物のように大切に詰め込まれている。12月の4日間を描いたこの映画は、静かに、優しく、心に染み透ってくる。
