グランドピアノを背負った男「調教師」は、夜のニューヨークを彷徨い歩く。冗談ではなく、本当に背負っている。そしてその深い微笑みは、見る人に「なにか素敵な物語も背負っているのだろう」と思わせる。黒い巨体が肩の上でゆらゆらと揺れ、不思議な足取りにもかかわらず誰も驚かない。街がその異物を当たり前のものとして受け入れているようだ。調律師の片手にはスケッチブック。恋人たち、喪に服す人たち、そして巨大な蟻とであうが、一度も、口をきかない。15分のあいだ、この映画にはセリフがひとつもない。あるのは足音と、ピアノの音だけだ。
「7 Piano Sketches」は、André 3000が2025年に発表した同名のピアノ即興集にあわせて作られた短編で、今年の6月にMUBI独占で公開。監督はGraham Mason、脚本はアンドレとの共同。MUBIの紹介文は “saunters with the expressiveness of a silent comedy”(サイレント喜劇の表現力で、ぶらぶらと歩く)と書いている。実際これは「音はあるのに言葉がない」という意味でのサイレント映画だ。あらすじはこう要約されている——「夜の街をさまよう調律師が、遠くから街の人々を眺めている。だが運命のいたずらで”同類”と正面から向き合うことになったとき、彼はずっと探していたものを見つける」。共演はIkechukwu Ufomadu、Mara Brock Akil、Matthew Maher、Ruby McCollister、Jiaoying Summers。撮影は Kelly Jeffrey、美術は Elysia Belilove、製作は Object & Animal と Mason 自身の International Pigeon Production。実に贅沢で、ニューヨーク的で、インスピレーションに富んだ15分である。

このピアノには前段がある。2025年5月、メットガラの階段に、アンドレは背中に本物のグランドピアノを括りつけて登場。その晩、EP「7 Piano Sketches」をサプライズで放流したという。つまり、この映像はその時のアイデアが形になったもの。収録された7曲は、「New Blue Sun」(2023/グラミー3部門ノミネート、うち年間最優秀アルバム賞)よりさらに10年ほど前、テキサスの家で録られたものだという。息子と暮らしていたその家には、ピアノとベッドとテレビしかなかった。だから彼はいつもピアノを弾いていた。iPhoneかノートPCの内蔵マイクで録音しただけの”作品にする気のなかった音”だったと本人は言いっている。「最高だよ。感情的にいちばん自由で、自分がいちばん良い状態だったから。自分にとっての口直しみたいなもの」。冗談まじりに、当初は「史上最高に最悪なラップアルバム」と名付けようとしたらしい。歌詞が一言もないから、と。
この映像の監督、Graham Masonも個性的な才能を持つ。ニューヨークを拠点に、コメディと実験映画のあいだを行き来してきた人で、代表作は「Inspector Ike」(2020)。共演のUfomaduと共同で脚本を書き、Factory 25とBRIC Arts Mediaが製作した、”1970年代の失われたテレビ映画”を装ったデッドパンな探偵コメディで、メリーランド映画祭でプレミア、ニューオーリンズ映画祭で最優秀長編賞を獲っている。ニューヨーク・タイムズはこれを “an inspired goof”(霊感に満ちたおふざけ)と評した。加えて彼は編集者でもあり、India Donaldsonの「Good One」と Jane Schoenbrun の新作という、カンヌでプレミアした2本を切っている。おふざけの人であり、同時に沈黙と間の人。この人選が効いていないはずがない。
この15分足らずの映画には、もう一つ大事な物が隠されている。それはニューヨークという街が持っている、底知れぬ包容力と、インスピレーションを解き放ってくれる、ステージセットのような空間の力だ。ピアノを持つ調教師、巨大な蟻、そして完成しない下書きと突然始まる恋の予感と。何もかもが同じ星空の下で一つに輝くからこそ、この街じゃなきゃ生まれない物語があるのだろう。「7 Piano Sketches」は、そんな魅力的な作品の一つだ。