2025年3月11日に首都マニラの空港で、フィリピンの前大統領ドゥテルテが逮捕された。ドゥテルテ前大統領は在任中に、「麻薬戦争」と呼ばれる強硬な取締りを主導し6000人を超える「容疑者」たちを殺害してきた(またはそれに関わってきた)。国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が発行されたのだという。日本人からすると馴染みのない話かもしれないが、フィリピンの人たちにとっては長い戦いが節目を迎える大事な局面なのだ。特に命の危険も顧みず腐敗した政府と戦いながら世界に真実を配信し続け、その勇敢な「表現の自由を守るための努力」ゆえにノーベル平和賞を受賞したマリア・レッサにとっては。
彼女が2012年に立ち上げたオンライメディアrapplerは、「自由に話す」を意味するrapと「波紋のように広がる」を意味するrippleから作られた造語だという。設立以来精力的に政府関係者の汚職や麻薬戦争について暴き続け、それゆえに彼女のことを煙たく思う政府関係者は多い。BBCのインタビューでマリアはこう答えている。「私がジャーナリストとしての職務を遂行したという理由だけで、フィリピン政府は10件の刑事訴訟を起こしました。それらすべての訴状について法廷で戦い続けました。そして、私が訴訟に勝てるようになったのは、ドゥテルテ大統領の任期が終わってからなんです」と。つまりそれは、時の権力者が司法をねじ曲げ、自分が都合のいいように世界が動くように仕向けていたということだろうか。となると、一つの疑問が頭に浮かぶ。それはドゥテルテ大統領の時代にフィリピンは国際刑事裁判所から脱退していたことだ。それは数年前の話だが気になるニュースだったので覚えている。なぜICCに加盟していないフィリピンに対して逮捕状が発行されたのだろうか?
そのヒントは「誰がICCに協力したのか」にある。現大統領フェルディナンド・マルコス・ジュニア氏は逮捕の理由をこう説明する。「インターポールが助けを求めていたので協力しました。国際社会の一員である民主主義国家の指導者として期待に応えたまでです」。現在のフィリピン国内の政治闘争はかなり複雑になっており、副大統領であるドゥテルテの娘サラ・ドゥテルテが最近弾劾されたという情報もある。明らかな人権侵害が行われていたとしても、「フィリピン大統領が国際法廷で人道に対する罪で起訴されるのは初めて」であり、歴史的な出来事であることに変わりはない。マリア・レッサによると「本当は去年の8月には逮捕状が出る予定でしたが、ガザの事件が起こったので延期になったんですよ」という。そう考えるとすでに政権交代をした時からこれは決まっていたことなのかもしれない。しかもそれが政敵アキノを暗殺し独裁の時代を築いたマルコスの息子の手によるとは、なんという皮肉だろうか。
BBCのティム・フランクスによると、ドナルド・トランプが大統領に返り咲いてから、今の世界は「免責の時代になった」という人が増えているという。ひどいことをしても罰せられず、大統領によって「問題ない」と恩赦され、最近では正義なんて存在しない。だからこそ、今回のような出来事が、もう一度「正義とはなんなのか」「してはいけないことはなんなのか」「尊厳とは」と人々に問うているのではないだろうかとティムは言う。この質問に対して、マリア・レッサはこう答えた。「はい、私も正義について考える大切な時だと思います。スウェーデンのV-Dem研究所の発表によりますと、昨年の時点で世界の 71% が現在独裁政権下にあるそうです。アメリカのトランプ大統領が就任して以来、多くの裁判が始まっています。フィリピン人とアメリカ人の国籍を持つ私にとって、二つの国で起きている出来事はとても恐ろしく、衝撃的です。 今、世界を正しい方向に向けるためには、行動が代償を伴ったとしても、最後には正義がなされるということを伝える必要があります。これはフィリピンだけに限ったことではなく、この世界全てに言えることなんです」。
身分の高いものはそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという道徳観ノブレス・オブリージュのことを思い出しながら、ドゥテルテ逮捕のニュースをもう一度眺めてみる。ハーグに向かう飛行機に乗る前に「私が犯した犯罪は何ですか?法律とは?」と自己弁護の動画を投稿した彼の人生から、僕らは何を学べるのだろうか。むしろ「表現の自由を守るための努力」のために戦い続けるマリアの瞳の中にこそ、ノブレス・オブリージュが感じられるのは、僕だけだろうか。
