その処刑が正義なのかどうか、弁証法的モンタージュを通して揺れ動く。

March 11th, 2025 / / / / / /

50年以上前に起きた実際の処刑風景を映した無声映像と、そっくり同じシチュエーションにドラマチックな音楽をはめて再現した伝記動画を繋ぎ合わせるという野心的な10分の作品『THE MARSHAL’S TWO EXECUTIONS』。まるで問題提起するためにだけ作ったとしか言いようがないショートピースを作ったのは、ルーマニア出身のラドゥ・ジューデ。不謹慎な問題作『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』でベルリン国際映画祭金熊賞受賞をするなど世界的には高く評価されている監督だが、イメージフォーラム・フェスティバル2021で紹介されるまではあまり日本では知られていなかったという。

とにかく『THE MARSHAL’S TWO EXECUTIONS(直訳すると、元帥の二つの処刑)』は、不思議な作品である。ルーマニアの戦時独裁者として処刑されたイオン・アントネスクらを銃殺で処刑する現場を映しているだけの作品である。この人は1940年から1944年までルーマニアの統治者であり、ヒトラーとも仲良しであり、彼が率いたルーマニア政府軍がユダヤ人の3分の1にあたる13,266人以上を虐殺するなど、処刑されてもしょうがないような人物である。決して正義ではないし、誰も彼を褒め称えはしない。そのため、淡々と処刑場面を進めてゆく実際の無声映像を見ても「かわいそうに」「ひどいことを」というような感情は生まれない。裁かれて当然のことをしてきたと冷静にわかって見ている。

しかし、である。 壮大な音楽と表情で(安っぽい)再現ドラマ的な演出を加えるだけでユダヤ人虐殺を遂行した政治家があたかも悲劇のヒーローにさえ見えてきてしまう。このフィクション動画も記録映像もラドゥ・ジューデ自身が撮ったものではない。記録映像に関しては1946年にカメラマンのオヴィディウ・ゴロガンが撮影したものであり、フィクションパートはチャウセスク政権崩壊を描いたルーマニア映画『WAR』の監督セルジュ・ニコラエスク監督が撮影した場面を抜き出したものである。ラドゥ・ジューデがやったことは、「この二つを並べて提示した」だけである(僕の認識が正しければ)。そして、そこにこの作品のメッセージがある。

ラドゥ・ジューデ自身が語っているように、彼は「セルゲイ・エイゼンシュタインのモンタージュ理論(弁証法的モンタージュ)」に刺激を受けてこのアイデアを思いついたという。エイゼンシュテインのモンタージュ理論は映画学校の基礎課程で習うようなことだが、なかなか奥が深い理論らしいので全てを理解することは難しい。ただ、エイゼンシュテイン本人の言葉によれば「ものの意味は組み合わせにより決定する」らしい。素材のままでは出てこなかった新しい意味が編集工程で生まれてくる、ということだろう。かなり前のことだが、雑誌の仕事で天才写真家アラーキーさん(荒木経惟)にインタビューをさせてもらったことがあったが、その時にも同じような話を聞かせてもらった。三人の男女を写真に撮った時、二人だけを切り抜いて「愛人」と書けばそう見えるし、三人まとめて「親子」と書けばそう見える。そんな感じで「フレーミング」には責任があると言った話だったように覚えているが、『THE MARSHAL’S TWO EXECUTIONS』の場合には”イデオロギー”が関わってくるから恐ろしい。それが「英雄」に見えるか「犯罪者」に見えるかは、あしらい一つで決まってしまう。またはその二つの間をゆらゆらと揺れ動いているのだ。明治維新の際に流行った言葉「勝てば官軍、負ければ賊軍」ではないが、弁証法的モンタージュと「無関係の映像を勝手に繋げてしまう心理現象」クレショフ効果に揺れ動かされた僕たちは、何が真実かさえ曖昧になってゆく。

2023年、ラドゥ・ジューデは50人の映画監督たちと「イスラエルのガザ侵攻の際の停戦と市民殺害の停止、人道支援のためのガザへの人道的回廊の設置と人質の解放を求める公開書簡」に署名したらしい。 ”イデオロギー”の曖昧さについて問題提起を投げかけてくれた彼だが、このアクションを見る限りは、彼自身の中にある”正義”は、決してぶれてはいないようだ。

Art by Daisuke Nishimura