このタイトルは、夢中でカメラを回すドキュメンタリーの撮影者キルステン・ジョンソンの姿を見て、哲学者ジャック・デリダが口にした冗談だ。ニューヨークの雑踏のなか、この”脱構築”のフランスの哲学者が話す言葉をひとつも漏らすまいと、彼女はぴったりくっついて撮影していた。その姿を見たデリダは、「彼女は撮影に夢中だな。だったら私は、星に気を取られて井戸に落ちる哲学者だな」と笑いとばしたのだ。星を見上げて歩いていて井戸に落ち、召使いの女に笑われたという、古代ギリシャの哲学者タレスの逸話である。それほどまでに、ドキュメンタリー映画の作り手であり撮影監督でもあるキルステン・ジョンソンは、”この世界を描きだすこと”に夢中なのだ。
キルステン・ジョンソンが監督した「CAMERAPERSON」の主人公は、彼女自身である。正確には、彼女が25年以上にわたって撮りつづけてきた、膨大なフッテージが主人公だ。「シチズンフォー スノーデンの暴露」など、ドキュメンタリーの第一線で活躍しつづけてきた撮影監督の彼女は、どのように世界とつながり、どのように被写体に愛され、ときには世界の不条理に苦しむ人たちや、逃れられない悲しみと向きあってきたのか。ボスニア、ダルフール、カブール、テキサス、そしてニューヨーク。それは彼女自身に影響を与えてきた、思い出深い映像たちだ。異なる場所の断片が交互に編集されているだけなのに、そこには、心地よい”キルステンの時間”が流れている。ある意味、とても実験的なモンタージュ作品であり、102分が短く感じられるほど引きこまれる。
登場人物のなかに、ワイオミング州で暮らす、ショートカットの年老いた女性がいる。キルステンの母だという。アルツハイマー病になってから、3年がたつらしい。砂時計のようにさらさらと消えていく記憶の流れに逆らうように、彼女は羊牧場の入り口に力強く立ち、遠くを見つめている。「お母さん」とキルステンが呼ぶと、振りかえる。その隣では、父のディック・ジョンソンが微笑んでいる。
あれ? よく考えると、このお父さんを主人公にした映画があったはずだ。タイトルもそのままの「ディック・ジョンソンの死」(2020)。Netflixでも観られるらしい。認知症が進んでいく父がまだ生きているうちに、娘がそのさまざまな”死”を想像し、父と一緒に演じて撮ってしまうという、独創的で、どこかコミカルな作品だ。父は、娘のブラックユーモアに乗って、自分の死の場面を楽しそうに演じてみせる。この作品は、2020年のサンダンス映画祭で審査員特別賞を受けている。そうか、キルステンさんのご両親は、ふたりとも記憶を失っていく病と向きあい、そのすべてを、彼女は撮りつづけてきたのか……。
統合失調症の姉を撮りつづけたドキュメンタリー「どうすればよかったか?」もそうだが、壊れていく家族を撮りつづけるのは、簡単なことではないだろう。映画の後半、少し表情が変わりはじめた母は、震える手で、古いモノクロの家族写真を握りしめる。キルステンの声はやさしく、そのカメラも、決して急がない。「どうすればよかったか?」で、弟が姉に「ぼくでよかったら、話はいくらでも聞くよ」と言ったように、そこには、母を撮る娘としてのキルステンがいる。
2016年のシェフィールド・ドキュメンタリー映画祭で審査員大賞を受けたこの作品には、観る人に、ドキュメンタリーの本質について考えさせる力があると思う。なぜ、僕たちはドキュメンタリーに惹きつけられるのか。なぜ、彼女はそこまでして撮りつづけるのか。ジャック・デリダが星に夢中な哲学者にたとえたように、ドキュメンタリストたちは、美しい光を見つけては、夢中で撮影しているのだ。そこに井戸があって落っこちてしまったとしても、今度はその井戸を、夢中で撮っているのかもしれない。

