アキ・カウリスマキの映画に登場する人間たちは美しい。無骨で油にまみれてゴツゴツとした手をした男たち。誰もいない荒野を彷徨い続けた後のような乾いた瞳をした老人。おせっかい焼きのぶっきらぼうな女たち。2011年の長編『ル・アーヴルの靴みがき』に出てくる靴磨きのマルセルも、『バーテンダー』に出てくるポルトガル人バーテンダーも、『鋳物工場(Valimo)』に登場する工場で働く男たちも、慎ましくオーセンティックでダンディな生き様が見る人に美しさを感じさせてくれる。そしてそこにある、よそ者への深い愛と、ささやかな奇跡と希望。その全てがないまぜになってカウリスマキ作品の美しさは生まれていると思う。
“難民3部作”の第一作として作られた『ル・アーヴルの靴みがき』(2011)は、そんなカウリスマキが生み出した心が温まる現代の寓話。ドキュメンタリー映画『海は燃えている』でも扱われて社会問題となった「アフリカから逃げてきた難民たち」が主題となっているが、彼らが置かれたシリアスな状況にもかかわらず、この作品に暗さはない。むしろ小さな奇跡で心が温まる名作である。ドキュメンタリー『海は燃えている』ではイタリア領のランペドゥーザ島が舞台になっているが、この映画の舞台はフランスの港町ル・アーブル。それも、難民たちはフランスではなくイギリスに向かうコンテナの中に隠れていたが、何かの間違い(か密入国斡旋業者の企みか)でル・アーブルの港で降ろされてしまう。この当時のフランスは移民法を改正し不法滞在者の取り締まりを強化したサルコジの時代。「港町三部作」から「難民三部作」へと創作のコンセプトを変更したあたりに、カウリスマキが移民問題に対して並々ならぬ関心があったことは想像できる。それは、「よそ者」というドラマを持った存在たちを、独自の視線で描いてきたカウリスマキにとっては、見過ごせないテーマであったのだろう。そのコンテナから一人抜け出した黒人の少年を靴磨きのマルセルが匿うことで物語は始まる。

自分もストリートミュージシャンをやってきた時代もあったし、路上で絵を売っていたことがあるのでよくわかるが、靴磨きのように往来の中で立ち止まる人を頼りにする仕事は豊かになるのは難しい。全くお金にならない日もある。そんなつつましく小銭を数えながら生きている人たちが、何の関係もない難民の子どもを家にかくまい、食事を与え、遠くイギリスに住んでいる家族と会えるようにと、お金を集め、奮闘する姿には驚かされる。現代の日本で、こんなことをする人はいないだろう。何の迷いもなく強い信念で行動をする人たち。八百屋のおじさんもパン屋のおばさんも酒場の女マスターも、そうすることに特別な「理由」なんてない。あるとすれば、それぞれの「イズム」だ。生き様。何を大事にして生きるか。きちんと整理された服装、整えられたテーブル、同じ時間に同じ場所で生きる姿。タバコを吸う仕草。その全てに彼らが「イズム」を持って生きているのがわかる。誰がなんというとか、知るか。この子は絶対に助けるんだ。そうやって生きてきたし、これからも生きていくんだよ、と。
カウリスマキの映画には魅力的なイズムがあることは2012年の短編作品「バーテンダー」を見るとよくわかる。この作品はポルトガルをテーマに四人の監督が短編を綴った『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』に収められた一本であり、ポルトガルのある街でこぢんまりとしたバー兼レストランを経営している普通の男の1日が描かれている。このバーテンダーも靴磨きのマルセルと同じく身だしなみがキチンとしている。よくアイロンをかけられたシャツ、ポマードで固められた頭髪、丁寧にモップをかけれた床石。彼が曲げずに続けている「イズム」を誇りに生きていることがよくわかる。ただし残念ながら、それだけではお客は増えない。塩だけを振りかけて作ったスープは美味しいはずはなく、外に置かれたメニューの看板も質素で色気がない。近所の定年を迎えたおっさんや爺さんたちが酒とタバコで時間を過ごすためだけに集まるの社交場と化しているようだ。なんとかお客を増やそうと、規則正しく日々を送りながらも、答えを求めて葛藤する。決して努力が結ばれるわけでもない不条理な世界にため息をつきながら、1日の最後にはいつも通り、窓際に野良猫のためにミルク皿を置く。華やかさとは正反対の生き方をしている男だが、その変わることのない生き様が実に美しいと感じるのは僕だけだろうか。もしかしたら、そうすることで、たとえば猫がミルクを飲んでいる姿が目に浮かぶように、彼のイズムを通して「彼が生きる世界」が鮮やかに浮かぶからだろう。つまり、生き様とは、映画で言うところの映写機のように、生き様を通して「生きている世界」を見せてくれるのだ。

そんな気持ちが、カウリスマキのエッセンスをエスプレッソのように極限まで濃縮した超短編作品『鋳物工場(Valimo)』(2007)をみて確信に変わった。火花が巻き上がる鋳物工場で働く、無骨で無口な労働者たち。彼らは昼休みになると、お昼ご飯のサンドイッチを頬張りながら、工場に設置された映画館で昔の映画を見る。それも映画発明者であるリュミエール兄弟の世界初の実写商業映画『工場の出口』が画面に映し出されている。彼らはあまりにも無骨なので、笑っているのかどうかわからない。ただ、実に素晴らしい表情なのだ。そこにあるドラマが、彼らの顔や汚れた服やゴツゴツした手のひら、そしてそこにある生き様から感じられる。フィンランド生まれのカウリスマキは、フィンランドの工場労働者たちの表情を通して、純粋に「映画を見ることの至福」を表現し、を男たちの大切にしているイズムへの敬意も表現しているように思える。その姿だけで物語が醸し出されているのだから、たった4分しかなくても十分表現できるのだ。
「移民三部作」はまだ二作しかなかったと思うので、もう一本が出ることを楽しみに別の作品を見て待っていることにしよう。