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夜と霧になるな、誰の目にも映る光になれ。

今や、世界のあらゆる場所で紛争が起き、新しい兵器が次々と補充されていく。いつか近い未来、それが第三次世界大戦へと広がっていくのではないか。誰もが心の底で、そんな不安を抱えている時代だ。そんな今だからこそ、映画を通して、戦争の矛盾と人間の愚かさを見つめつづけたアラン・レネの二本、短編ドキュメンタリー「夜と霧」(1956)と、「ヒロシマ・モナムール」(1959、邦題「二十四時間の情事」)を、続けて観ることにした。

「ヒロシマ・モナムール」は、アラン・レネの長編デビュー作だ。一方の「夜と霧」は、強制収容所でユダヤ人をはじめとする大勢の人々が虐殺された、ホロコーストを告発した、重く濃密な短編である。わずか4年のあいだに、ホロコーストとヒロシマという、二つの歴史的な大罪を、ここまで”正視するまなざし”で作品にできたのはすごい。じつはレネは、もともと原爆についての短編ドキュメンタリーを頼まれていたという。けれど「夜と霧」をくりかえしたくなかった彼は、何か月も迷ったすえに、作家マルグリット・デュラスに脚本を頼む。そうして生まれたのが、この「ヒロシマ・モナムール」だった。

「ヒロシマ・モナムール」は、男女のロマンチックなアヴァンチュールの体裁をとっている。けれど、原爆投下直後の惨状を描いた場面が挿しこまれ、被爆者たちの実際の映像も使われていて、そこにある覚悟はかなり本気だ。その再現の場面は、関川秀雄監督の映画「ひろしま」(1953)からとられたもので、日本人の男を演じた岡田英次は、その「ひろしま」にも主演していた。「水素爆弾が原子爆弾1500発分の規模だとしたら、今つくられている4万個の爆弾には、どれほどの力があるのか? 悲しいことに、人間の政治的知性は、科学的知性より一千倍も劣っている。水爆実験をやめろ! NO MORE HIROSHIMA!」。そんな看板だけを掲げた群衆が、無言のまま練り歩く場面も、しっかりと差しこまれる。根底には、力強い反戦のメッセージがある。

映画の撮影で広島に来たフランスの女優と、日本人の建築家(自称。働いている場面はない)とのアヴァンチュールは美しい。けれど、ふたりは根底に隠された恐ろしい物語を伝えるための、語り部にすぎない。あるいは、ふたりの関係そのものが、何か強烈なもののメタファーとして用意されているようにも感じる。彼女が「喫茶ドーム」で、男に自分の過去を語りながら涙をこぼす場面。「死んでゆく彼の体と、自分の体に、ほんの少しの違いも感じられなかったわ。ときには、人生がもたらす問題について、考えるのをやめなくてはいけない。そうしなければ、窒息してしまう」。彼女は自分の過去を語っているのだが、それは同時に、ヒロシマと、それにまつわる物語への、アラン・レネ自身のメッセージでもあるのだろう。

Art by Daisuke Nishimura

そしてもう一本は、強制収容所で起きたことを、記録映像を交えて、圧倒的なリアリズムで記録した短編「夜と霧」だ。この作品は、世界中の人が一度は観るべき、もっとも重要な作品のひとつだと思う。公開当時は世界に衝撃を与え、論争が巻き起こったという。日本でも、過激な場面が数分カットされて、ようやく上映された。映画は、美しい田園風景から始まる。「農道も、恋人たちの歩く道も、行楽客でにぎわう市場の道も、その先には強制収容所がありました」。そしてカメラは、鉄条網に覆われた広大な収容所を映しだす。「収容所には、山小屋風、日本風など、さまざまなスタイルがありました」。まるで観光ガイドのような語り口で始まり、カメラは少しずつ内部へと迫っていく。逃げることなどかなわない、広大で、計画された、悪意のなかへ。

「どこかの街で人生を謳歌していた人たちのために、彼らが人生を終える場所が、ここで着々と用意されていたのです」。そんな内容のナレーションに、背筋がぞっとする。そういう視点で考えたことはなかったが、たしかにそうなのだ。緻密に計算され、組織化されたやり方で日常から引きはがされた人々は、この空間に閉じこめられ、命を奪われていった。その数は、何百万人にものぼる。一人ひとりの姿がありありと浮かんでくるほど、その数に吐き気を覚える。「ここは将校たちの部屋です。彼らに気に入られた女性たちは、ここで夜の相手をすることで、ほんの少しだけ命をつなぐことができました。結末は同じでしたが」。建物の中で生きた人たちの”物語”が語られていく。「ときには、その部屋の窓がほんの少し開けられ、隠れて待つ仲間のために、パンが落とされたこともあったでしょう」。精いっぱい生きようとする彼らの姿が目に浮かぶほど、切なく、悲しい。

ロベルト・ベニーニ監督の「ライフ・イズ・ビューティフル」の後半、霧の向こうに一瞬だけ”死体の山”が映しだされる。初めて観たとき、「なんだこれは!? そんなわけないだろう」と信じられなかった。けれど、実際はそうではなかった。あんなものではなかったのだ。あそこで見た光景は、わかりやすくつくられた”小さな山”にすぎず、本当は、その何十倍もの死体の山が広がっていた。「夜と霧」には、それが記録されている。ホラーSFで、惑星ひとつが死体で覆われているような世界。わかりやすくいえば、漫画「ベルセルク」で、ベヘリットの力によって開かれた異界”蝕”の風景だ。切りとられた髪の毛だけが集められた空間は、想像をはるかに超えて、果てしなく広がっていく。そのうえ、ナレーションは、この髪の毛で布を織り、人の体から紙や石鹸までつくろうとした、と語る。恐怖と嫌悪感は限界に達し、早くこの空間から逃げだしたいと、心から思えてくる。

Art by Daisuke Nishimura

「夜と霧」という名前は、ナチス・ドイツに抵抗した者たちを”夜と霧”のなかへ消すように連れさるべし、という指令からとられている。1941年、国防軍最高司令部の総長ヴィルヘルム・カイテルが署名した指令だ。その名前は、ヒトラーが愛したリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ラインの黄金」で、隠れ兜をかぶって姿を消すアルベリヒが唱える「Nacht und Nebel, niemand gleich!(夜と霧となれ、誰の目にも映らぬように!)」という言葉からきている、という説がある。ん? なんだ、この卑怯な言葉は。誰の目にも映らないように夜と霧になることなど、許されるはずがない。そんな卑怯な思想で、人々をさらい、殺してきたとは。「ヒロシマ・モナムール」の最後で、主人公の女性は「あなたが歌になってしまう」と、忘却がすべてを飲みこんでいくことへの恐怖を語りはじめる。そんなことは、決して許されない。ヒロシマも、アウシュヴィッツも、決して忘れられてはいけないのだ。

けれど、大丈夫だ。「夜と霧」と「ヒロシマ・モナムール」があるのだから。マルグリット・デュラスが書いた美しい物語とともに語られるヒロシマ。そして、アウシュヴィッツの恐ろしさをまっすぐに見つめるドキュメンタリー。アラン・レネが残してくれた二つの作品には、時を超えて訴えつづける力がある。これからも、愚かな人間たちは何度も恐ろしいことを考え、悪意に身をまかせていくだろう。「政治的知性は、科学的知性より劣っている」と、レネが看板に書かせたように、愚かな人間たちが世界を動かしてしまうのだ。だからこそ、過去の過ちを繰りかえしてはいけない。そんなのは、糞食らえだ。言ってみれば、「夜と霧になるな、誰の目にも映る光になれ!」だ。