手描きアニメーション「動くドローイング」シリーズで知られる南アフリカ出身の現代美術家ウィリアム・ケントリッジ は、とにかく落ち着きがない。あっちへ行ったりこっちへ来たり、ダンスを踊りながら懐中電灯で自分の影を作っては線でなぞって遊んだり。木炭を握りしめてはサラサラっと線を描いてゆくのだが、さらに困ったことに、「彼が描く線たち」も、落ち着きがない。とにかく変幻自在なのだ。それが人物のかたちなることもあれば、コーヒーポッドになることもある。精密な風景になることもある。その素描された全てが彼の動きに合わせてダイナミックに変化することでそこに唯一無二のウィリアムな世界が生まれてくるのだから、不思議でしょうがない。
全9話からなる短編シリーズ『Self-Portrait as a Coffee-Pot』は、とにかくアートを志す全ての人たちに見てもらいたい。観賞者にも見てもらいたいが、どちらかというと”絵描きたち”にである。もちろんこの連作が現代美術家ウィリアム・ケントリッジの壮大なクロニクルであるということもあるが、現代美術家になる前にはパリのエコール・ジャック・ルコックにおいて演劇を学びヨハネスブルグのジャンクション・アベニュー・シアター・カンパニーで演出家兼俳優を務めたことからもわかるように、ウィリアムには絵の才能だけでなく自分の思想を的確に伝える「言葉」と「体の動き」という才能がある。
このシリーズには、登場人物が極端に少ない。ひたすら絵を書き続けるウィリアムと、もう一人のウィリアム・ケントリッジが”ドッペルゲンガー”として登場するだけだ(ダンサーとピアニストも少しだけ登場する)。”彼ら”はそっけなく会話を続けながらひたすら絵を描いてゆくのだが、よそ見しながら描いているにも関わらず、その表現が実に豊かである。「描いた線を前にすると、それは炭と塵でしかないことがわかる。それが意味を持てるかどうかは、腕と手の筋肉に依存している」。確かに、描き手の存在によって「塵」には意味が与えられてゆくのだ。踊りながら描いていくウィリアムを見ていると、”ドローイング”というものが、人間の身体性から生まれていることがよくわかる。
時々なぜか彼が描く線は、コーヒーポッドのようなかたちになる。この映像シリーズのタイトル『Self-Portrait as a Coffee-Pot』にあるように、彼はコーヒーポッドを自画像として描いているようだ。「花を描いてもコーヒーポットを描いても顔を描いても、アクションは同じである。描き続けていくなかで、人は自分が何者であるかを感じることができる」と語るウィリアム。つまり「自分の顔」と「コーヒーポッド」は、”アクション”を通じて同じものであり、それがそのままこのシリーズのタイトルになったのだろう。「描く行為とは、あなたが誰であるかという”感情”であると同時に、誰であるかを”表現するもの”でもある」という。
一枚一枚描いては撮影していくストップモーションの手法によるアニメーションで世界を驚かせたウィリアム・ケントリッジ。アパルトヘイト時代の記憶さえも自由奔放なドローイングに変えてしまう彼のダイナミズムが、この9話のシリーズには余すところなく込められている。